DJ KOO激白!小室哲哉のglobe参加に「正直、嫉妬はあった」

小室プロデュース作品がオリコンチャートを席巻していた時代を語るDJ KOO
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崇拝していた小室哲哉さんがプロデューサー離脱

――TRFは「survival dAnce ~no no cry more~」(94年)でオリコンチャート1位になり、「Frame」(98年)まで4年間、リリースしたCDすべてが10位以内にランクイン。その間、レコーディングなどで小室さんから厳しい注意を受けたことは?

いや、なかったですね。

というのも「BOY MEETS GIRL」(94年)以降、小室さんはレコーディングに参加せず、基本的に僕とYU-KIに任せてくれていたんです。

小室さんからは仮歌が入ったデモテープと簡単なイメージワードをもらうだけ。その意図を僕がくみ取って、YU-KIのボーカルをディレクションしていくんですよ。

――YU-KIさんのディレクションは、小室さんではなくKOOさんがやられていたんですか。

途中からは。その頃、小室さんは他にも多数のアーティストのプロデュースをされていましたし、忙しかったんでしょうね。

篠原涼子ちゃんや、H Jungle With tとか。

――ほぼすべてのヒット曲が「小室プロデュース」だった時代ですからね。しかし…小室さんは1995年にglobeに参加を。正直、嫉妬などは?

globeへの思いを語るDJ KOO
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それは…ありますよ。

だって“一流のプロデューサー”としての能力を持った人が、一人の演奏者としてグループに入るんですよ?

「スゲェことやるんだろうな」っていう、うらやましさがありました。

――多忙の影響もあったのか、小室さんは1998年にTRFのプロデュースから外れてしまい、小室さんという大きな存在を失うことに。他のメンバーと相談などは?

どうすれば小室さんがいなくなってもリリースが続けられるかを、話し合いましたよ。

作曲も小室さんがしていたので、小室さん以外の人から曲を集めようという話になったんですが…。

メンバー全員が「小室さんみたいな曲を書いてくれる人にお願いしたいね」という意見で一致してしまったんですよね(笑)。

――小室さんへの“思い”は消えなかったと…。結果的に、曲は集まったんですか?

小室さん“みたいな”曲は集まるんですが、やっぱり違うんですよ。

小室さんの曲が体に染み付いている僕たちからすると「ああ、いい曲だけどね…」という感じで。

だからといって、僕が自分で書いてみても、何か違うんですよね。

そういったこともあり、CDリリースはしづらくなってしまいました。

――そして1999年から2006年まで、いったんCDリリースがストップ…。しかし、解散とはなりませんでしたね。

僕たちは、すごく前向きなんです。

TRFとしての活動はストップしてしまうけど、その前に“自分たちがいた場所”に一度立ち返って、まずはその第一線で頑張ろうとなったんです。

僕ならDJの現場、SAMなら振り付けなどですよね。

そうして、自分たちの実力を日々磨いていくことで「またいつでもTRFに帰って来られるんじゃないか」と考えたんですよ。

――確かに、見事2006年には6年5カ月ぶりに再結集し「Where to begin」をリリース。これは何かきっかけが?

楽曲は常にいろいろ集めていたんですが、「これはいける!」という曲…「Where to begin」が出てきたのが、そのときだったんですよ。

久しぶりにステージに立ったとき、「フロントの4人はホントにスゴイな!」と思いましたね。

僕のDJブースからは、お客さんもその4人も、会場のすべてが見えるんですけど「変わんねぇな!」って。

TRFとしての活動がないときも、それぞれスゴく努力してきたということが分かったんですよ。

今見てもみんなのパフォーマンスは素晴らしくて…。これって、TRFから距離を置いていた時期に身に付けた色々なものも、生きてると思うんですよね。

だから、今になって思うんです。“どんな経験も財産”なんだな…って。

【週刊ジョージア】

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