ELT・伊藤一朗、「あいのり」主題歌ヒットで首の皮一枚つながった…

伊藤一朗(Every Little Thing)
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Every Little Thingの“いっくん”こと伊藤一朗。グループ活動20周年を迎えた彼の“ほろ苦い”体験を前後編に分けてお届け!後編ではメンバー脱退時の辛い思い出を語る!!

本番直前の楽屋で聞かされた、元メンバー・五十嵐の脱退

――3rdシングル「Dear My Friend」(97年)は初のTOP10入り、2ndアルバム「Time to Destination」(98年)は売上枚数350万枚超えと大ブレークされました。

当時は目の前のことをこなすので精いっぱいで。

徹夜でレコーディングして、途中で「ミュージックステーション」(テレビ朝日系)の収録に行って、またレコーディング…。

今だから言えますが、本番中は眠そうな顔してたと思います(笑)。

――どんな時にブレイクを実感されました?

街なかで、人のイヤホンや車の中から自分たちの曲が聞こえてきた時ですね。

「それオレたちの曲!」って心の中で叫んでました(笑)。

――生活レベルも変わりました…?

CDが100万枚売れたら…家が2、3軒買えるぐらいもうかるんだろうと思ってた時期が僕もありました…でも全然そんなことなくて。

実際、神奈川から通ってた分の交通費を経費で落とせるようになったくらいかな(笑)。

曲を作って印税を稼いでたであろう五十嵐くんは、お店に行って「ここからここまで」って買い物をしてたようですが(笑)。

僕は、社長から「おまえは絶対ハメを外すな」と言われていて、「ELTが調子に乗ってると思われないようにしないとな」と。

メンバー間でそういう違いがあってバランスが良かったのかもしれません。

――以降、「Time goes by」(98年)などヒットが続いた絶頂期、2000年のツアー直前に五十嵐さんが脱退…。

右肩上りの時期でしたし、彼がELTの全ての曲を書いていたので…。

「解散かな…」と僕も思いましたし、周りもそう思ってたんじゃないかな。

――脱退の話を聞いたのはいつ?

五十嵐くんがELTの活動や曲作りで忙しすぎて精神的に追い込まれて…、一時期連絡が取れない状態になって。

それで99年のNHK紅白歌合戦の本番前に、マネージャーから「五十嵐くんが脱退する」と聞かされたんです。

その時は紅白本番を直後に控えていたし、詳しい話を聞ける雰囲気ではなくて、「ああ、そうですか…」としか言えなかったですね。

五十嵐くんが辞めたいと思っていることは薄々感じていましたが、仕事をドタキャンしたことが何度かあって、事情がどうであれそれはダメだと僕は思ってた。

でも続けられないことより、つらいことを伝えてくれなかったことの方が悲しかったです。

――その後持田さんとはどういう話を?

ツアーの券売が始まっていて、「ファンをがっかりさせないようにしよう。だから今売れてる分はやろうよ!」と話しました。

――2人で活動するようになって、変わったことは?

それまでは“持田香織とその他”だったんだけど、“持田香織ともう一人の人”になったことですかね。

インタビューでもたくさんしゃべって(笑)。

ライブでもMCをするのが定番になりました。「ちょっと(間を)つないでて」とか言われて…僕、ギタリストなのに(笑)。

「あいのり」主題歌の大ヒットで首の皮一枚つながった…

ほろ苦い体験を語る伊藤一朗
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――2人体制になって不安は?

五十嵐くんがいなくなって、僕らはもちろん、周囲もそりゃ心配してました。

「大丈夫なのか、あいつら」って。

――そんな中、今や代表曲の「fragile」(2001年)がリリースされ…。

そう、発売直後にアルバムのレコーディングのために山中湖で合宿してね。

何日もお風呂に入らず毎日徹夜。

で、深夜0時過ぎの休憩中に、偶然「ワンダフル」(TBS系)って深夜の情報番組を見て。

そこで「fragile」がチャート首位だと知ったんです。

――そんな知り方だったんですね(笑)。

そう(笑)。持田と「イエーイ!1位だ!」って喜んだんですが…。

でも僕は正直、「これで首がつながったな」という思いでした。

――え?

2人体制の不安もあって、僕らと、会社の人やファンの人たち…周りの人をつなぎとめる何かが欲しかったんです。

「fragile」は人気番組「あいのり」(フジテレビ系)のタイアップという大きな案件でした。

「あいのり」の一つ前の主題歌は、ゆずの「始まりの場所」という曲でね。それがものすごいハマってた。

だから、それと同等かそれを超える曲を出さないとって焦りもあって…でも作れる確証なんてないじゃないですか。

曲のアレンジには確か2週間ぐらい、ものすごい時間かけたんですけど…。

僕の中では「“たまたま”マッチして良かった」という気持ちでした。

――そうだったんですね。以降もヒット曲を連発していましたが「azure moon」(2006年)ではブレーク後初めてTOP10外に…。

栄枯盛衰じゃないですけど、「一生ブレークは続かない」というのは持田も僕も分かってました。

「この仕事を継続するにはどうすればいいのか?」…それはCDセールス以外のところでも成立させられると思うんです。

最高のライブをやり続けたり、僕に関してはバラエティーで“ヨゴレ”仕事もできますから(笑)。

僕は業界に入る前に一度諦めていて、しかも遅く入ったから、「明日仕事があるとは限らない」とずっと思ってる。

とはいっても「失敗しないように」と一生懸命やっても、失敗のない人生なんてあるわけがない(笑)。

だから失敗に負けない “ハート”を育てることが成功への鍵になると思うんです。

僕も、「ELTは僕じゃなくても売れたはず…違う人だったらもっと売れてたかも…」とか考えたりします。

でも、僕が歌番組以外でテレビに出ることで、「この人の曲聴いてみようかな」って思ってくれる人がほんの一握りでも…増やせるんですよね。

だから得意ではないけど、ELTにとってプラスになるなら、失敗しようがバラエティーでもなんでもやる覚悟はできていますよ。

【週刊ジョージア】

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