HAKUEI“数千万”借金の過去激白!独立後“エセ業界人”にだまされ…

HAKUEI(PENICILLIN)
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ヴィジュアル系バンド、PENICILLIN(ペニシリン)のボーカルを務めるHAKUEI。代表曲「ロマンス」大ヒットの裏に隠された苦い経験や、テレビ出演時に味わった冷たい扱いなど、20年以上も続くバンドのほろ苦い秘話に迫る!

「ロマンス」ヒット後の大チャンスを逃した…!!

――PENICILLINといえば1998年発売のシングル「ロマンス」が売り上げ90万枚、オリコンチャート4位と、大ヒット。

正直言うと、「ロマンス」ってあんなに売れるって思ってなくて。

原曲は僕なんですけど、売れてやる!と思って書いたわけじゃないですし…。

――そうなんですか!?

その前の作品が、僕らにしてはちょっとポップな路線にいってたんですよ。

それは納得してやったことなんだけど、それまでに積み重ねてきた、PENICILLINの激しくて切ない曲調や雰囲気が薄れてきてしまった。

それを払拭(ふっしょく)したくて、「“PENICILLINらしさ”が出れば何でもいいや」と思って書いたのが「ロマンス」だったんですよ。

――「この曲は売れそう」と、周りから言われたりしなかったんですか?

確かに宣伝には力を入れてもらいましたよ。レーベル移籍後第1弾作品だったから。

それでも、イニシャル※(※初回出荷枚数)は10万枚くらいでしたからね。

そこまで期待されていた感じじゃなかった。

その後「追加の受注がスゲーよ!!」という話を聞いて驚きました。

でも、そのヒットしている状況を実感できなかったんですよね。メンバー全員が。

――どういうことですか?

「ロマンス」がヒットした1月に、僕ら日本にいなくて。ロックオペラ「ハムレット」※のプロモーション映像の撮影でイギリスに行っていたんです。

(※シェイクスピアの戯曲「ハムレット」を、ロック調の音楽に乗せて繰り広げるミュージカル)

レコード会社の方から電話で売り上げ速報を聞いて、「マジで!?」って驚いて。

で、日本に帰って来たら、既に曲が有名になってました。

――帰国後は大忙しだったのでは?

それが、そんなことなかったんです…。

あの時代は、1曲売れたらどんどん作品を出してプロモーションしていくのが普通だったんですけど、リリース期間が空いちゃったんですよ。

――なぜですか?

先ほど話した舞台「ハムレット」の公演が5月に決まっていたんです。中野サンプラザが設立25周年記念で、力の入った大舞台でした。

その年の1月くらいから舞台の準備に入ってたんですよ。

主演が僕で、他のメンバーも全員出演していた。だから新曲のレコーディングができなかったんです。

――すぐ次の作品を作っていれば、「ロマンス」以上にヒットしたかもしれないのに…。

周りには「惜しかった」と言われたりしましたけど、メンバー的にはあまり自覚がなかった。

それでも、急いで作って5月には「MAKE LOVE」という曲をリリースしたんですけどね…。

――その「MAKE LOVE」は、オリコン8位でした。

急にリリースが決まったので、スケジュールは厳しかったけど、ベストは尽くしました。

舞台「ハムレット」も本当に大きな仕事だったし、僕らは舞台に集中してたから悩んでいる暇はなかったけど…。

舞台出演は役者としていい話でしたし、今の自分にとっていい経験ではあったんですけどね。

リリースのタイミングと調整しないといけないんだな…と痛感しました。

対バン相手だったGLAYが一躍スターに

――PENICILLINはインディーズ時代から人気で、メジャーデビューも鳴り物入りでしたよね?

そうかな?

一緒に対バンをしていたGLAYのほうがすごかったと思うよ。

俺らよりも向こうの方が先にメジャーデビューしているし。

――対バンしていたんですね。

他にはMALICE MIZER(マリスミゼル)※とか。

(※GACKTが2代目ボーカルを務めたヴィジュアル系バンド)

ライブハウス主導で、同じ日程にブッキングされていましたね。

――GLAYのメジャーデビューが決まった時は、どんな気持ちだったんですか?

GLAYが一番初めにメジャーに行ったんですけど、本当にいい刺激になりました。

YOSHIKIさん(X JAPAN)プロデュースで急にデビューしたんですよ。華々しかったですね。

僕らもメジャーに行きたいと思っていたから…

――悔しかった?

いやいや。「俺らもデビューできるんじゃねえか」と思えたし、GLAYは希望の星でしたよ。

大学生だった俺らは、どうやってデビューしたらいいかさえ分かってなかったけど、

「動員も似たり寄ったりだったGLAYが一気にあそこまでブレイクするんだ!オレらにもチャンスがあるかも!?」って思えました(笑)。

インディーズの頃は、たくさん悔しい思いをしてたので、希望が持てる出来事でしたね。

――悔しい思い?

僕ら、大学2年生の時にバンドを結成して、2年間事務所に所属せずに活動していたんですけど。

当時は変な慣習があって。売れている先輩バンドのローディー※経験がないと、周りから“ナメられる”んです。

(※楽器の搬入出や、ミュージシャンに対するサポートを行う付き人的な立場のこと)

僕らみたいに何のローディー経験もない奴らがライブで目立っちゃうと、「なんだお前ら」とか言われたり。

――そんなことが…。

あとは、「大学行ってるくせに」とかイチャモンつけてくる奴も多くて。

「はぁ?うるせーなぁ」と思ってました。

もちろん、中にはいい人もいましたよ。

あるとき、そんな人から「PENICILLINもローディーとかやれば動きやすくなるんじゃないの?」って助言をもらって。

media youth(メディアユース)※というバンドを紹介してもらいました。

(※KIYOSHI、Daisuke、HIROKI、KOHICHI で編成されたヴィジュアル系バンド)

それを機に、media youthのローディーをやらせてもらって。そしたら、嫌がらせがパタッとなくなりましたね。

冷たく扱われたテレビ出演

――メジャーデビューの後、すぐに人気が出てメディアへの露出もありましたよね?

90年代って音楽番組がいっぱいあったし、ヴィジュアル系のバンドがたくさんテレビに出ていたんですよ。

僕らも出てたわけですけど…。

実は、その時ってテレビに出ることが、結構イヤだったんです。

――なぜですか?

ある番組の収録現場に行くと「また、(ヴィジュアル系の)変なバンドが来た」みたいな空気が流れて、妙にスタッフから新人扱いされて。

「なんか冷たい現場だなー」と思ってました。

――アウェーな現場だったんですね。

歌のコーナーもある某バラエティ番組だったんですけどね。

司会の方とフリートークする場面もあって、努力はしたんですけど、まだ駆け出しだったのでうまく会話ができなかった。

で、カメラのテープチェンジの間に、メンバー同士で世間話をしてたんですけど…。

それを見た司会者の方に、「なんだよ、テメーらしゃべれんじゃねーかよ」って冷たく言われて。

――露骨ですね。他のバラエティ番組も経験されましたよね。何か苦い思い出はありますか?

うまくいかなかったってことで言えば「ダウンタウンDX」かな。

昔はゲストがクイズで対決する企画があって、自分たちは「チームPENICILLIN」として出たんです。

番組だけど「対決だし、真剣に勝負しよう!」ってやったら…優勝したんですよ。

優勝が決まった時はメンバー全員喜びました。本気でしたからね。

で、落ち着いてスタジオの雰囲気を見たら「…あ、違ったな」って。

――(笑)。

そこは、ドラマのプロモーションで来ている女優さんとかに勝たせるべきだったんでしょうね(笑)。

収録の後、メンバー全員で反省しました。

――今でもテレビは苦手ですか?

それが、そうでもないんですよ。

去年、「有吉反省会」という番組に呼んでいただきまして。

テレビのオファーは出来るだけ断り続けていたんですけど、何度もお話を頂いていたし。

「HAKUEIとしてじゃなく、バンドで出るならいいよ」と言って、オファーを受けたんです。

そしたら、ディレクターとか番組の担当者が、「学生の頃PENICILLIN聞いてました!」みたいなこと言ってくれたんです。

そして、すごく丁寧に対応していただきました。

――楽しかった?

番組自体は楽しかったですよ。

でも、「有吉反省会」では、「禊(みそぎ)」というゲストが反省したい事を有吉(弘行)さんの前で悔い改めるコーナーがあるんです。

“ビビり”として出演していた僕の「禊」は「富士急ハイランドでお化け屋敷の『戦慄迷宮』に行け」だった。

「まあ、メンバーと一緒だし別に平気だろう」と高をくくっていたんですけど…入って2秒で後悔しました(笑)。

超怖いんですよ。マジで冷や汗が止まらなくて。

――(笑)。

正直、ここ数年で一番キツイ仕事でしたね。

普段、連絡を取り合うこともないメンバーと手をつないだりしていましたから。

「バンドの結束力って、こういう時に発揮されるんだな」と(笑)。

個人事務所設立後に数千万円の負債…

――2002年にそれまでの所属事務所から独立し、PENICILLINのみなさんで事務所を立ち上げられましたね。

あの時は本当に大変でした…。

僕らはただのアーティストだったんで、事務所の運営は慣れないことだらけ。

お金関係は“言えないくらい”苦労しました。

ライブで観客もちゃんと動員しているのに、なぜか年間の収支は赤字になったり。

具体的には言いづらいんですが、後々考えると何をするにも通常の何倍も費用が…。

僕らが世間知らずだったのもありますが、世知辛い世の中だなと痛感しましたね。

これは言ってもいいか、訳の分かんない“コーディネーター”みたいなヤツもいました。

「プロモーションが大変でしょう、手伝うよー」と言うからお願いしたら。

たいした仕事もしていないのに毎月法外なプロモーション費用を持っていかれたんです。

――それらが年間で、トータルどれくらいの損害に?

新品で一番高い「ベントレー」が買えるくらいじゃないですかね。

――そんなに!?数千万円単位じゃないですか!

お金以外も大変でしたよ。

当時、独立した僕たちに業界は冷たかったですからね。

もう「信じられるのはメンバーとファンだけ」という状態。

――その5年後にGISHO(ギショー)さんが脱退されました。

GISHOくんが抜けたことは、すごくデカいショックでした。

やめないでほしかったし、もっと一緒にやりたかった。辛かったですね…。

脱退が決まってからしばらくは、GISHOくんがいたときのLIVE映像を一人で見ながら、飲んだくれる日々でした。

――それだけGISHOさんの存在は大きかったわけですね。

「他のみんなには音楽に集中してほしいから、運営はオレに任せてくれ」

って、事務所設立当初からずっと言ってくれて、財務とかややこしいことを一手に引き受けてくれていたんです。

それまでの事務所に比べて不自由なこともたくさんあったけど、

「アイツが頑張ってるから、そんなこと言ってらんねぇな」って思えました。

でも…本人がニ足の草鞋(わらじ)を履いて、音楽活動との両立が大変だっていうのは、見てて分かってたんですよね。

それにGISHOくんが音楽活動以外に時間をとられるようになったので、彼のスケジュールに合わせようとすると、PENICILLINとして思うように活動ができなかった。

バンドとしてもそれが足かせになると気付いていたし、GISHOくん自身もそれを気にしながら活動を続けていたんです。

そして…結果、脱退という形になってしまった。

――GISHOさんが脱退するときに、バンド自体の解散も考えましたか?

他のメンバーで、バンドの存続について話し合いましたよ。

でも、「新たに進化したPENICILLINが出来上がったと言われるようになろう!」って、みんなの思いは一緒でした。

もちろん、GISHO君への責任もあったしね。

本当に悲しくて苦しい時期だったけど、残ったメンバーの絆はより強くなったし、自分の中でのバンド存在がより大きく感じられるようになった。

だから、今後もソロ活動で多くの経験や“失敗”を積み重ねながらも、PENICILLINは大切にしていきたいと思います。

――失敗も?

僕は、失敗に終わったとしても全力でやったからこそ次につながることってあると思います。

【写真を見る】カッコ良すぎる!HAKUEIから読者への直筆メッセージ
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例えば、独立して何度もだまされたのは確かに失敗です。

だけど…今もPENICILLINとして活動を続けていられるのは、その失敗をメンバーたちが力を合わせて乗り越え、様々な経験を積んできたからこそだと思うんですよね。

【週刊ジョージア】

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HAKUEI●(はくえい)1970年生まれ。宮崎県出身。ヴィジュアル系バンド、PENICILLINのボーカルを務めるとともに、「machine」「ライチ☆光クラブ」のボーカルも担当。アーティスト活動のほかに映画・舞台にも出演。「漫画兄弟」名義で絵本を発表するなど多彩に活躍する。

取材/野村博史(DUAL CRUISE) 撮影/洲脇理恵(MAXPHOTO)

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