大槻ケンヂ、「新・筋肉少女帯」結成計画を激白!

「筋肉少女帯」「特撮」のボーカルを務める大槻ケンヂ氏
  • 「筋肉少女帯」「特撮」のボーカルを務める大槻ケンヂ氏

80年代より活躍するロックバンド「筋肉少女帯」のボーカルとして知られる大槻ケンヂ。また、その個性的なキャラクターから音楽番組以外への出演も多い。常に人気街道を歩み続けているように見える彼に“苦い”体験や秘話を聞いた!!

“高木ブーの歌”を無許可で制作し大目玉!

――「筋肉少女帯」(以下、筋少)として活動し約30年。印象的な“苦い”経験はありますか?

たくさんありますよ。特に覚えてるのは「高木ブー伝説」のことですね。

メジャーデビュー(1988年)した直後、高木ブーさんに無許可で「高木ブー伝説」という曲を販売しようとして、怒られたんです。だいぶ(笑)。

――えっ、なぜ許可をとらなかったんですか?

元はね、インディーズ時代に出した曲だったんですよ。(インディーズ版は1987年リリース)

でも、そのときは何も言われなかったから。

――なるほど…。

当時はカッコイイ恋愛ソングが流行ってたから、「オレは逆にカッコ悪い恋愛ソングを作ってやる!」と思って。

“恋に悩むけど、何もできない無力な男”

を表現する言葉を悩んだ結果、高木さんにたどりついたんです。

「何もできない男、何もできない男……高木ブーだ!!」と(苦笑)。

「今この世にない表現や歌詞を作りたい」というマジメな理由だったんですが…今考えると、失礼な話ですね(笑)。

――(笑)。

同じくインディーズで活動していたTHE BLUE HEARTSの「人にやさしく」と、インディーズチャートの1位、2位を競い合うくらい話題になって。

この曲がヒットしたおかげで、メジャーレーベル数社から声をかけてもらえたほどなんです。

それで、メジャー初のアルバムにも収録しようと、あらためてレコーディングを進めている途中で、各方面からストップが…。

――まあ、当然というか…。

そうなんです。

「あんなもんは出しちゃいけない」ということすら分からなかった、若さのバカさがヤバイですよね。

会社の人も「(許可はとらなくて)大丈夫だよ~」なんて言ってたのに、ある日…、

「ダメ!怒られた!!ホントにダメなヤツ!」と、青い顔で(笑)。

高木さん本人ではないんですが、“ちゃんとした大人”から注意されたそうです。

――結局、お蔵入りに?

いえ。それが後日、なんとご本人が許可をくださり「元祖 高木ブー伝説」としてリリースできることになったんです。

「若いヤツらが、頑張ってバカやってるんだから、許してあげようよ」

と、本当に優しい言葉をくださって。

それがきっかけで、筋少のライブにも来ていただけるようになったんですよ。

いらっしゃったときに、僕が「次は高木ブー伝説です!」と言ったら、スーって立ち上がって四方にお辞儀をしてくださって(笑)。

高木さんの、器の大きさに感動しましたね。

「行きたくない」からテレビ収録をサボる…

――そんなアクシデントがありながらも、筋少はデビューしてすぐ人気バンドに。

当時はバンドブームでしたからね。「イカ天」※が話題だったし。

(※「三宅裕司のいかすバンド天国」。メジャーデビューをかけ、複数のバンドが競う番組)

僕らはデビュー自体もそうなんですが、バンドブームに乗って、なんだかよく分からないうちに人気が出ちゃったんですよ。

それが苦い部分ですかね。

学生のアルバイト感覚で芸能界に入っちゃって。しかもテレビとかに出してもらうと、自分がスターになったような勘違いをして、ヒドかったですよ。

―― というと?

テレビで「筋肉少女帯の深夜改造計画」というバラエティ番組を、久本雅美さんとやってたんです。

その収録を、「行きたくない」という理由で休んだことがあって。

――ええっ!

いや、言い訳があるんですよ(笑)。

元々の原因は、当時のマネージャーが僕に収録日を伝え忘れてたことなんです。

まあ、他の人から聞いて知ってたんですが(笑)。

「いいや、知らなかったことにしよう」と休んで、家でボーッと…。

「何様!?」って感じですよね。

――まったく(笑)!仕事を無断でサボったワケですからね。

今思うと、ミュージシャンとして仕事をもらえているありがたさを、理解していなかったんです。

当時は、若者が自分を表現する場所としてはライブハウスに出るのが一番早かった。

僕は特に音楽が好きだったワケではなくて、自己表現をするための方法としてバンドを始めたんですよ。

だからマジメにミュージシャンを目指していた人たちと比べると「この世界で頑張ろう!」という気持ちが、足りなかったんですね。

――なるほど…。確かに大槻さんはデビュー後、音楽活動以外でのテレビ出演も目立っていました。

それは、腰が低いロックミュージシャンという“キャラづくり”がうまくいったからですね。

それ以前のミュージシャンは、テレビに出ても“スカしてる”人が多かったじゃないですか。

だったら逆に、イカついメイクをしてるけど「てへ♪」みたいな感じを出せば、ウケるんじゃないかと思ったんです。

――その計算が見事にハマり、大槻さん個人だけでなく、筋少の知名度を上げることにも貢献しました。

でも当時は「俺の力で筋少は売れているんだ!」という“おごり”がありましたね。

それがメンバーとの不仲を生み、後に筋少の活動休止に繋がる原因の一つになるんです。

筋少の休止…「新・筋肉少女帯」結成!?

――メジャーデビューから16年目でいったん活動休止。その8年後に活動を再開していますね。

休止したときは、本当にメンバーと気まずかったんです。

バンドブームは終わっていたけど、筋少は僕がテレビに露出していたこともあり、他のバンドよりはまだ人気があって。

その頃の僕には「俺のおかげで~」という気持ちがあり、他のメンバーに良く思われなかったんでしょうね…。

――なるほど…。

実は休止前に、僕とあと一人を残して「新・筋肉少女帯」を作ろう、という話なんてのもあったんですよ(笑)。

当時の事務所の社長が話を持ちかけて、ちょっと実現に向けて進んでいたんです。

――そんなことが?

制作ディレクターも決まってて、社長は「レコード会社とも話がついたぞ!」とまで言ってました。

でも、ある日のライブ終わりに、そのディレクターをする予定だった人が泣きながら走ってるのを偶然見かけて(笑)。

社長に聞いたら「大槻、あの話は無くなった」と…。

「はぁ!?」と思って、あきれましたよね。

そうこうしてるうちに、筋少は活動休止。

しばらくして、事務所自体もつぶれちゃったんです(笑)。

――芸能界は厳しいですね…。

それでもなんとか、僕個人で新しい事務所に入って、ソロ活動をしたり「特撮」という新しいバンドを組んだりしました。

だけど、まだ調子に乗ってたから「俺がいれば筋少じゃなくても大丈夫だろう!」なんて、思ってたんですが…。

ソロでライブをしたら、地方行くと客席がスカスカなときも。

ソロで全国ツアーをしても、筋少時代は1200人くらい入った熊本で100人も集まらず。青森なんて、チケットが売れなさすぎてライブ中止に。

やっと「今までの人気は、『筋少』というブランドがあってのものだったんだ」という現実を知りました…。

――そうなんですね…。その一方で、音楽活動以外でのテレビ出演は順調に。

「ここがヘンだよ日本人」などに、コメンテーターとして呼んでもらっていましたね。

だから、あの頃は自分でもよくバランスが分からなくなってました。

ミュージシャンとしてはヘコんでいる時期なのに、テレビに出たら一流のタレントさんがたくさんいる、キラキラした世界にいて。

ライブハウスの楽屋で、キャベツが入ってたダンボール箱をイスがわりにしている次の日に、芸能人飲み会で六本木とか(笑)。

――そのときに、音楽をやめて“テレビタレント”になろうとは?

思わなかったですね。その内に、向いてないと考えてました。

「ココがへんだよ-」もそうですが、当時は教養バラエティ番組が増えていた時期で。

僕はマジメなキャラだったから“知識人”としてのコメントが求められるんですよ。

でも、僕は政治もスポーツも何も分からない。毎回、話に付いていくだけで必死だったんです。無理してた。

かといって、毒舌で笑いをとったり、ドッキリとかでリアクション芸をしたりするのも、そこまで腹をくくれなかった。

いわゆる“タレントさん”にはなれないんだなぁと。

――一見順調に見えても、そうではなかったと。

そんな中で、「ライブがやりたい!」という気持ちは常にありました。

僕は高校時代から、今で言う“コミュ障”な、内向的な性格で。

クラスでの1対1とか、1対39とかの付き合いが辛かったんですよ。

だけど、ライブで1対2000とか、1対2万8000とかになると、逆にわりと平気で(笑)。

お客さんという“人”に対してはコミュ障じゃないの(笑)。

「俺が育ってきたのは“この場所”だから、ずっと続けていくものなんだろうな」という思いがありましたね。

“死んだ魚のような目”で客が見てくる…

――そして、筋少の活動再開に繋がるんですね。

そうですね。

それ以前のソロ活動中は、いろいろ“ほろ苦い”経験をしましたよ。

名古屋での、若いバンドとの対バンだったんですが。

客席を見ると、前の方にゴスロリのカッコをした女の子たちが集まっていて。

筋少はそういう子たちに人気があったから「お、オレのファンが来てるな!」と張り切ってステージに上がったら…。

その子たちが“微動だにしない”んです(笑)。

死んだ魚のような目で、こっちを見て「早く終われ」オーラを出してくる。

――若いバンドのファンだった…。

そうなんです。世代が変わってた。

それに耐えて、なんとかステージを終えたら、若いバンドの子たちは…、

「うれしいです!大槻さんと共演できるなんて感激です!!」

みたいなことを、言ってくれるんですよ。またバランスがとれない(笑)。

そのギャップが辛かったですね(笑)。

――人生、そんな事の連続ですね。

名古屋は、そのライブがめちゃくちゃほろ苦かったから、強く印象に残ってますね(笑)。

で、バンドの再結成をしたら、以前の筋少のファンがまた皆来てくださった。

――そうなんですね。

でも、何でもムダじゃない。

すごく若い子で「ここがヘンだよ-」を見て、僕のファンになってくれたという子もいるんです。

「向いてないな…」と思いながら必死で出ていた番組も、どんな経験もムダじゃなかったんだと救われました。

――苦い体験が報われたんですね。

あと、全身全霊を込めて本気で書いたけど、最初はあまり世間に認められなかった「ステーシー」※という僕の小説があるんですが。

(※1997年発行。少女がゾンビになるホラー作品)

発売当時は「もっと評価されないとおかしい!みんなが知らないせいだ!!」という鬱屈した思いがあって。

街中にある電話ボックスとかに、自分で本を置いてまわるくらい追い込まれていたんです(笑)。

それが発売から10年以上たった2012年に、モーニング娘。さん主演でミュージカル化されたんですよ。

だから、うまくいかないと思って、落ち込んだり焦ったりすることって誰でもあると思うんですけど。

その“アワアワ”は、いつか必ず報われると思うんですよね。

【写真を見る】大槻ケンヂ氏から、みなさんへの意外な直筆メッセージ!「失敗や“アワアワ”が…」
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大槻ケンヂ●(おおつき・けんぢ)1966年生まれ。東京都出身。ロックバンド「筋肉少女帯」「特撮」のボーカルを務め、並行してソロ活動も行う。また作詞家や、エッセイストとしての顔も持つ。

取材/野村博史(DUAL CRUISE) 撮影/洲脇理恵(MAXPHOTO)

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