“ガラガラ”のタイトルマッチ!!棚橋弘至が新日本の“暗黒期”語る

9月16日にWEBマガジン「週刊ジョージア」で、新日本プロレスのエースであるプロレスラー・棚橋弘至の「ほろ苦インタビュー リバイバル」が掲載された。

同企画は、今年の1月に配信した記事を好評につき再配信したもの。プロレス人気どん底時代に、「新日本プロレス」のチャンピオンになった棚橋が経験した“苦い”記憶が語られている。その一部を紹介しよう。

棚橋弘至
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――棚橋さんがチャンピオンになった2006年頃は、プロレス自体の人気が低迷し新日本も“倒産寸前”とまで言われていました。広告塔の役目にかなり苦労されたのでは?

本当にきつかったですね…。

地方へプロモーションに行っても、プロレス自体の人気がなかったから全然人が集まらないんです。

事前に「新日本のチャンピオンが行くから、ぜひ取材をしてください!」と、その地域のテレビ、ラジオ、地方紙などに声をかけまくるんですよ。

それなのに、小さなタウン誌とコミュニティラジオの2つからしか出演依頼がなかったりして、せっかく行っても時間をもてあましていました。

仕方ないから、お昼を食べに行ったお店で「新日本プロレスというんですが、ポスターを張っていただけますか?」と、地道な広報活動をしたり。

――プロレス人気自体が絶望的だったんですね…。ということは、試合の集客もかなり悪かったのでは。

はい…。僕がIWGPチャンピオンになった翌年の2007年、そのベルトをかけて後藤(洋央紀)と両国国技館で戦ったんですけど。

そのときは、1万人入る会場に2000人くらいしかお客がいませんでした…。

――トップの座を争う試合なのに…。

でもこれって、他でもない“僕”の責任なんですよ。

チャンピオンとして出ている僕に人気が無いから、チケットが売れないんです。

本当なら“客の呼べないチャンピオンなんていらない”んですよね…。

――では、その日は相当落ち込んだんでしょうか?

いえ。というのも、客入りは少なかったんですが試合自体はすごく盛り上がったんです。

後藤が僕に「チャラ男!」と挑発してきて。

少し前から生意気キャラをしていた僕が、“生意気なチャラ男”という完全な憎まれ役になったんです。

客席からは、それにともない大ブーイングが起こりました。

――棚橋さんの知名度を上げた“チャラ男”というイメージは、そのときに誕生したんですね。

そうなんです。そして、ブーイングが大きいほど対戦相手への声援も大きくなるため、会場全体が“後藤コール”に包まれて大盛り上がり。

そして、盛り上がったおかげで「棚橋は嫌いだけど、よく頑張っている!」という空気になり、勝ったときには大きな声援をいただけました。

※インタビュー全文は「週刊ジョージア」(https://weekly-g.jp)で掲載中【週刊ジョージア】

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棚橋弘至(たなはし・ひろし)●1976年生まれ、岐阜県出身。1999年に新日本プロレスに入門、同年デビュー。2006年に初めてIWGPヘビー級王者となり、通算最多防衛記録、連続防衛記録、最多戴冠記録を保持。

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