村上春樹作品に登場する「表情のない顔」の正体は?「顔」から解き明かす文学評論が示す現代像

『顔の剥奪: 文学から〈他者のあやうさ〉を読む』(鈴木智之/青弓社)
  • 『顔の剥奪: 文学から〈他者のあやうさ〉を読む』(鈴木智之/青弓社)

 人は他者の顔を確認することで、その存在を確認する。顔に浮かぶ表情を読み取ることで、他者の心を理解しようと努める。顔は人間関係の構築において、とても重要なパーツだ。「何を当たり前のことを」と鼻で笑う人もいるだろうが、文学の世界ではしばしば、「顔が認識できない人物」や「表情の読み取れない人物」が登場し、読者の心を不安にさせる。読者の共感を拒絶するかのような、作者による「顔の剥奪」にはどのような意図が隠されているのだろうか。

『顔の剥奪: 文学から〈他者のあやうさ〉を読む』(鈴木智之/青弓社)は「顔」に焦点を絞って文学作品を読み解いていく、ユニークな文芸評論である。評論を読み慣れていない読者には、学術的で少々難解に感じられる箇所もあるかもしれない。しかし、本書で取り上げられているのはいずれも、国内外で高い評価を得ている作家の小説ばかりであり、有名作品の新しい読み方を提示している点で、多くの読者に驚きと発見をもたらしてくれるだろう。

 本書では、五つの文学作品もしくはジャンルを中心にして、それぞれの作品における「顔」の描かれ方と、その意味の考察を行っていく。探偵小説における死体はどうして頻繁に「顔」を無惨に傷つけられるのか。多和田葉子『ペルソナ』において異邦人が感じる「顔のなさ」とは何か。林京子『道』における長崎原爆の死者の顔をめぐる物語はどうして結末が先送りにされて終わるのか。そしてメグレの探偵小説に見られる「顔の回復」とはどういう意味なのか。いずれも原典となる小説の文脈に忠実でありながらも、新鮮で興味深い考察が導かれていく。特に探偵小説の定番である「顔を剥奪された死体」を、「犯罪行為の暴力」と「探偵が行使する理性の暴力」の二重の暴力の表れとする論説には、唸らされずにいられない。

 そして、おそらく一般的な読者にもっとも興味深く読まれる章は、ベストセラー作家、村上春樹『国境の南、太陽の西』の考察に割かれた第2章だろう。ジャズバーの経営者であり、妻子持ちの「僕」が、小学校時代の同級生である「島本さん」と再会し、関係を結ぶという内容は、「ハルキスト」には楽しめても、「ありきたりなラブロマンス」や「おしゃれラブストーリー」に見えてしまい、のめりこめなかった人も多いのではないだろうか。そして、まさに村上作品のこういった「ありきたり」で「おしゃれ」な部分こそ、アンチ読者を生み出している原因だといえる。

 しかし、「顔」というモチーフに注目したとき、『国境の南、太陽の西』は表層的なラブロマンスとはまったく違った様相を帯び始める。「僕」は高校時代のガールフレンド、「イズミ」を偶然見かけるのだが、イズミの「表情のかけらもない顔」に「僕」は大きなショックを受けてしまう。「ありきたりなラブロマンス」ならば絶対に不要な、「僕」の心も読者の心も重たくさせるこんな場面がどうして必要だったのか? そこから「砂漠」という作中のキーワードと関連付けながら著者は、揺るぎ無く変わらないものなど存在しない世界の残酷さを『国境の南~』が描いていることを解き明かしていく。そして、イズミの表情はそんな「砂漠的世界」を象徴しているのだ。こうしたテーマを際立たせるために、空虚なラブロマンスのスタイルを模倣しながら、主人公の苦悩を描くことが作品に求められたのである。

 本書の終盤、「おわりに」と題された章で著者は現代のコミュニケーションについて触れる。

私たちの生活を支える新しいコミュニケーション技術は、現実に顔を合わせることを要求しない関係の領域を拡大している。(中略)しかし、その一方で「顔」はますます頻繁に、そして大量にメディア上に露出するようになっている。

 お互いに向き合って、表情を読み取り合わなくても関係が構築されてしまう現代は、まさに人々が「顔を剥奪された」時代だということができる。そんな状況下で、どんな風に自分や他者の存在を実感すればいいのか。それを本書は文学評論を通じて教えてくれるのである。

文=石塚就一

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