新しい環境で「迷子」になりかけている人へ。ミステリーの名手が贈る成長小説の傑作、待望の文庫化!

『感傷コンパス』(多島斗志之/KADOKAWA)
  • 『感傷コンパス』(多島斗志之/KADOKAWA)

 ローカル線で知らない町を旅している。多島斗志之の『感傷コンパス』(KADOKAWA)は、そんな気分が味わえる小説だ。目の前には豊かな自然が広がり、初めて聞くのに懐かしい方言が耳に飛びこんでくる。新幹線や飛行機の旅では得られない、心地よい時間が体をひたしてゆく。

 物語の主人公・井上明子はこの春大学を出たばかりの新米小学校教師である。志摩半島の景色に憧れて三重県の採用試験を受けた彼女が赴任されたのは、海とは縁もゆかりもない、伊賀の山村だった。その小さな分校で、明子は4年生と5年生のクラスを受け持つことになる。

 旅立ってゆく明子に、実家の父がプレゼントしてくれたのは、彼女のイニシャルが入った蓋つきの方位磁針(コンパス)だった。「伊賀には行ったことがないが、あそこは山の中だろう。迷子にならんようにな」。冗談めかした父の態度から、義母や義妹弟との関係がぎくしゃくし、実家に居づらくなった明子への思いやりが伝わってきて、読者の胸を打つ。本作は慣れない土地で「迷子」になりかけていた明子が、父のコンパスに助けられながら、教師として一人前になってゆく姿を描いた成長小説だ。

 明子が受け持つ6人の生徒たちは、いずれも個性豊かで可愛らしい。大人びた雰囲気をもつ級長の雪枝。坊主頭でいつも賑やかな新太郎。家庭の事情で東京から引っ越してきた豊と、その弟で泣き虫の保。内気だが幼い弟妹の面倒をよく見る房代。

 5年生の朱根は遅刻の常習犯で、遠足の最中にもふらっと姿を消してしまう、少々扱いにくいタイプの女子生徒である。同級生は「あいつ、わがまま勝手なんや」「悪ガキ女だよ」と評し、大人たちも問題児扱いしている。しかし、朱根の言動にはある隠された理由があった。

 作者の多島斗志之は『症例A』『不思議島』など多くの傑作ミステリーで知られるが、本作は特にミステリージャンルに属する小説ではない。ただし、朱根や同僚の千津世先生、営林署に勤める変わり者の青年・空木など、多彩な登場人物の知られざる一面が少しずつ明かされてゆく構成に、ミステリー作家としての手腕を確かめることができるだろう。

 自分がしていることは正しいのか。迷ったり悩んだりしながら、生徒たちと接する明子は、人間として一歩一歩成長してゆく。

 幾つもある印象的なシーンのなかで、特に心に残ったのは夏休みの初日、明子と子供たちが本校のプールを借りに行くシーンだ。いつも褌や下着で泳いでいて、本校の子たちのような水着を持っていない新太郎たちは、出かけた先でみんなの笑い物になってしまう。意気消沈し、無口になった子供たちに、明子が投げかける言葉がいい。小さな胸の哀しみをちゃんと理解して、明るい方へと導いてくれる。こんな先生がいたら素敵だろうな、と読んでいてしみじみ思った。

 日本が豊かになりつつあった昭和30年を背景に、それぞれの事情を抱えながら生きる子供と大人の喜怒哀楽を鮮やかに描ききった本作は、壺井栄の『二十四の瞳』や灰谷健次郎の『兎の眼』の隣に並べておきたくなるような、普遍的な力をもった物語である。

 2007年の単行本刊行から約10年。いまだ瑞々しい輝きを失うことのない不朽の名作を、ぜひこの文庫版で味わっていただきたい。

文=朝宮運河

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