ケミストリー川畑「ASAYANは最低」デビュー時の秘話語る!

CHEMISTRYとして再始動した川畑 要(かなめ)
  • CHEMISTRYとして再始動した川畑 要(かなめ)

2012年から“ソロ活動に専念”していたCHEMISTRY(ケミストリー)の川畑 要が12/8に“CHEMISTRY再始動”を宣言。その川畑がASAYANオーディション時の“苦い”経験から、ソロ活動、再始動まですべてを語った!

(※この記事はWEBマガジン「週刊ジョージア」の「ほろ苦インタビュー」より一部抜粋したものです。全文はオリジナルサイト<https://weekly-g.jp/c05roman/s01horoniga/ho158>でご覧いただけます)

給料を前借りし「ASAYAN」挑戦!

――CHEMISTRYは、オーディション番組「ASAYAN」(テレビ東京系)の「ASAYAN超男子。オーディション」という、応募者が約2万人もいた企画に合格してのデビューでした。

当時は建築現場で働きながら、レコード会社にデモテープを送ったり、オーディションを受けたりして、歌手を目指していたんです。

「ASAYAN」はずっと見ていて、男性シンガーのオーディションがあったら絶対に受けようとチェックしていましたね。

――確かに、それまでの「ASAYAN」は、モーニング娘。などの女性シンガーが中心でした。

ついに男性ヴォーカルオーディションが開催されると知って、応募したんですが。

なぜか、そのときは東京会場オーディションがなくて、大阪会場に行くしかなかったんですよ。

でも、その頃の僕は、東京-大阪間の交通費分すらお金を持っていなくて、建築現場の親方に頼み込んで前借りした給料で、大阪に行ったんです。

「そんなことのために前借りまでするなんて、バカじゃねーの?」なんて言われながら(笑)。

――給料を前借りした甲斐もあり、大阪での審査は合格を。

そうですね。「この次はどんな審査があるのかな」と思って、テレビ局からの連絡を毎日毎日待っていたんですが…。

そこから半年間、なんの連絡もなかったんですよ!

初めはどうなるのか不安だったんですが…途中から不安を通り越して、

「こんなに、ほったらかしにするなんて最低だな!」

と思うように(笑)。

――(笑)。なぜ半年も?

オーディションの反響が思ったより良かったから、規模も期間も拡大することになったみたいです。東京でもオーディションをやったり。

そして半年ぶりに連絡があって、また審査があり。それに受かった5人だけが東京に集められて、山中湖で合宿をすると。

この5人って、僕たちも誰が受かっているか集合場所に来るまで知らなかったんですが。

そこにいたのが、堂珍(嘉邦)、ATSUSHI(アツシ)、NESMITH(ネスミス)、藤岡(正明)、僕です。

(ATSUSHIとNESMITHは現在EXILE、藤岡もソロシンガーとして活動中)

――振り返ってみると、すごいメンバーです。

堂珍以外とも、今も仲いいですよ。

でも当時はライバルで、「こっから、“つぶし合い”が始まるのか…」なんて考えていました。

そんなときに、堂珍が僕に話しかけてきたんです。

「(川畑は)いると思ったよ」って。

ちょっと上から目線な気がしたから、「何だこいつ?」と(笑)。

イケメンだし、僕とは真逆のイメージの男だと思ったので、堂珍の第一印象は、あまり良くなかったですね。

今思うと、別に上から目線とかじゃなかったんでしょうけど。

逆にATSUSHIは、自分に似ていると思ったので、お互いに気が合って。

NESMITHは一番年下だったので、弟みたいに感じました。

――堂珍さんは、視聴者投票ですごく人気でしたね。

ええ、確かぶっちぎりだったんじゃないかな。

逆に僕はすっげー下の方で「マジ、俺どん底だな…」なんて思いました。

――結果的には、その堂珍さんとデュオでデビューすることになります。

合宿中に同い年だということが分かってからは仲良くなったので、全然問題ありませんでしたよ。

それに、オーディションの最終審査ということで、2人組ずつになって仮デビューCDを販売したんですが。

僕と堂珍のCD※だけ、まだ正式にデビューもしていないのに、オリコントップ10に入ったので、僕の中では堂珍とのデュオというものに自信と確信を持っていましたね。

(※2000年発売「最後の夜/My Cherie Amour」)

“一発屋”になるのが怖かった

――デビューシングルの「PIECES OF A DREAM」(2001年)はオリコン1位、ミリオンセールス達成と、最初から大ヒットを。

もう、「よく分かんない」状況だったというのが本音です。

だって、100万枚って想像つきます?

同じ年にファーストアルバム「The Way We Are」(2001年)を出したときなんて、レコード会社の人から、

「300万枚いったよ!!」

なんて言われましたが、「300万って、どれくらい?」ですよ。

――そうだったんですね。

僕も堂珍も、本当は小さなライブハウスとかからやっていきたかったんです。

そうやって実力をつけて、大きな場所でやって、お客さんも増えてCDも買ってもらえるようになってと。

でもテレビの効果が大きくて、そうなってしまった。

だから“一発屋”になってしまうのが怖かったです。

「一気に飽きられて、すぐにいなくなってしまうんじゃないか」

という恐怖は、常にありましたね。

――一発屋になることはなく好調に活動を続けていきますが、2003年にはCHEMISTRYの“生みの親”でもある松尾潔さん※が、音楽プロデューサーから離れることに。

(※「ASAYAN超男子。オーディション」は、松尾潔がプロデュースする歌手を選ぶ企画だった)

松尾さんから離れるのは不安でしたね…。

セールス面でも音楽性の面でも、松尾さんのことを、すごく信頼していたので。

だけど、いつまでも松尾さんに頼ってばかりじゃいけないことは分かっていて。

新たなCHEMISTRYを、みなさんに届ける方法を考えなくちゃいけないなと悩み、そこから曲の制作方法もガラッと変えました。

――どういう風に?

松尾さんから離れて初めて出したアルバム「One × One(ワンバイワン)」(2004年)のときは、コンペ形式で曲を募集して、僕と堂珍がそれを直接聴いて選びました。

1200曲も応募があり、ありがたい話だったんですけど…さすがに、ずっと聴いていると頭が痛くなりましたね(笑)。

しかもクオリティに差がありすぎて、色々聴いていると何が何だか分からなくなるんですよ(笑)。

――その「One × One」も、結果的には好評でした。しかし、2007年頃から徐々にセールスは下降を…。

そうですね…。「This Night」(2007年)のとき、オリコンでトップ10に入れず。

10位以内にいるのが当たり前だったので、そのときは悔しい気持もありました。

でも悔しかっただけかというと、そうでもなくて。

僕も堂珍も、その頃からお互いの“やりたいこと”を明確に出すようになってきていたんですよ。

だから、自分たちの本当にしたい音楽が作れたことや、ファンの方に届けられたことには嬉しい気持ちもありました。

しかし、売り上げが落ちてきているというのも事実で。

――複雑な思いが。

絶えず多くの音楽が世の中に出てくるので、売り上げ的な“低迷期”っていうのは絶対にあると思うんです。

だから売り上げを気にし過ぎるのはいけないんですが、音楽的な面でも“多くの方”に喜んでもらえる曲を作ることは大切。

自分たちのやりたい音楽で、なおかつ多くの方に聴いてもらえるものを作りたい。

このバランスを、納得がいくまで突き詰めようと考えるようになりましたね。

CHEMISTRYを続けるのはやめた方がいい…

――なるほど。そして、2011年にデビュー10周年を迎えるも、11年目の2012年に「ソロ活動に専念」と宣言を。

ええ。お互いが自分のしたい音楽を真剣に考えていく中で、2人ともソロをやりたい気持ちも出てきて。

逆に、CHEMISTRYとしての先が見えなくてなってきたんです。

そのとき「もう、CHEMISTRYを続けるのはやめた方がいいな。このまま無理をして続けると、自分たちを傷つけることになる」と思ったんですよ。

これは、堂珍も考えていたようで。

「ソロの活動に力を注いでスキルアップし、2人でもっといいものが作れるようになったときに、もう一度やろう」

という話になりました。

――休止というと、どのアーティストでも不仲説が流れますが、そうではないと。

ケンカとか、そういった理由ではないですね。

四六時中、一緒にいたのであまり話さなくはなっていましたが。

もう夫婦みたいというか、話さなくても分かる状態なんですよ。

――そんな堂珍さんと離れ、一人で活動してみて、いかがでしたか?

最初は、ただ嬉しかったですよ。

自分が考えた自分のやりたいことを、自分で表現できる。

CHEMISTRYの一人ではなく、“川畑 要”という人間を知ってもらえる。

これは、2人でやっているときには感じられなかったことですから。

――逆に苦い経験はありましたか?

途中で現実に気付くというか、「ソロでは、武道館なんてできないんだな…」と。

いや、今もソロで武道館というのは諦めていないんですが。

諦めていないだけに、「CHEMISTRY」というものの大きさを実感したというか。

ソロでの僕は、名刺代わりとなるヒット曲がないという苦さを味わったんですよ。

でもCHEMISTRYには、それが何曲もある。大きな“財産”を持っていたんだな…と気付きました。

15周年を迎えて再始動!

――ソロの時期に、堂珍さんと交流はあったんでしょうか?

頻繁にはなかったですが、僕は堂珍のライブを観に行ったり、ミュージカルにも行きましたよ。

でも、堂珍は一度も僕のライブに来なくて(笑)。片思いみたいになっていました。

――(笑)。そして、今年の12/8にCHEMISTRY再始動を発表。

実は構想段階から考えると、2年前から準備をしていたんです。15周年を迎えるときに再始動したいと、僕から持ちかけたんですよ。

最初はメールで「ぜひ、CHEMISTRYをやりたい」と。

でも、堂珍は“ぽ~っ”としているところがあるので、2、3日返信なくて(笑)。

―― (笑)。

けっこう熱い思いを書いたんですよ。

「お互いにソロの時期を過ごしたけど、今、俺はお前と一緒に歌いたいと思っている。ファンに届けるためにも、15周年のときにライブでもやろうよ」と…。

で、やっと3日目に返信が来たら、突然「今日、会えない?」って。

どんだけ勝手なんだよと(笑)。

――(笑)。

だけど会って話してみたら、彼も真剣に考えていたからこそ、返事に時間がかかっていたことが分かりました。

――そうなんですね。

その場では2人だけで、色々話しましたね。

僕は「初めて自分から、CHEMISTRYというデュオをやりたいと思っている」と。

というのも、CHEMISTRYは「ASAYAN」の企画で名前を与えられて、何百万枚も売って、どんどん大きくなっていきました。

もちろん、ずっと精一杯いいものを作ろうとしてきましたが、自分たちが「やりたい」と始めたものじゃなかったんですよ。

けど、今なら一度休止を経験したからこそ、今度は自分たちの意思でCHEMISTRYを始めることができるんじゃないかと。

――なるほど…。

堂珍も賛同してくれて、関係各所と調整を始めました。

――以前からファンの間でも、「15周年に復活してくれないかな」という意見はありましたね。

ええ、ありがたいことに。

僕も実はネットで見ていましたから、知っています。けっこう自分のことを検索しちゃうので(笑)。

1年くらい前からずっと、「ありがとう!復活するよ!!」って言いたくて、それをガマンしていたんです。

――もう、堂珍さんと歌を合わせたりしましたか?

いえ。新鮮な気持ちは、再始動する2月のライブまでとっておきたいので。

やろうと思えば、カラオケにでも行けばいいんですが。堂珍と合わせるときの“しびれる”感じを、ライブ当日に味わいたいんですよ。

――時間が空いたことで不安は?

僕はアホみたいにポジティブなので、失敗を怖がらないんです。いい意味での緊張はしますが、不安はないですね(笑)。

再始動を発表するとき公式動画を堂珍と一緒に撮ったんですが、そのときも前日は「どうなるのかな」と緊張していましたが、やってみると“すっ”と元の関係に戻れるんですよ。

ライブでもきっと、ソロで成長した2人の最高の状態を、お見せできると思いますよ。

(※この記事は「週刊ジョージア」からの抜粋です。“ぶら下げサングラス”誕生秘話など全文はオリジナルサイト<https://weekly-g.jp>でご覧いただけます)【週刊ジョージア】

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川畑 要(CHEMISTRY)(かわばた・かなめ)●1979年生まれ、東京都出身。男性デュオCHEMISTRYとして2001年にデビュー。2012年からソロ活動に専念するも、2016年12月にCHEMISTRY再始動を発表。

取材/野村博史(DUAL CRUISE) 撮影/星屋宏道

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